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| ◆たとえ明日世界が終わろうとも |
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キリスト教の聖フランシスコが言ったのか?或いは宗教改革を行ったドイツ人のルターが言った言葉だったのか、わかりませんが、彼が教会の土地にリンゴの苗木を植えていた時、通りかかった人に『もし明日この世が終わろうとしたならば、あなたはまず一番に何をなされますか?』と尋ねられました。 この地球が明日、彗星の衝突か、核爆弾の誤作動か、或いはキリスト教で言うハルマゲドンによるものなのかはわかりませんが、何らかの理由でこの世が終わろうとしたら『あなたはこの残されたたった今をどのようにお過ごしになられますか?』と尋ねられたのでした。 すると彼は『たとえこの世が明日終わろうとも、私はリンゴの樹を植える』と答えられたのでした。 もし同じ事を我々が尋ねられたら何と答えられるでしょうか?やり残して来た事ばかり多く何が一番大切な事なのかも、又何をやって置くべき事なのかもわかりません。彼のようにリンゴの樹を植えるという今の務めを黙々とやり続ける事など、とても出来そうにありません。なぜ彼は『リンゴの樹を植える』と答える事が出来たのでしょうか? この世の終りとは、逆に言えば私自身への死の宣告という事でもあります。誰でもがこの世に生まれた以上死の宣告を受けている訳であり、未だかって生き残った人もいないのです。越後の良寛さんが発句で『散る桜 残る桜も 散る桜』と詠まれたように、遅かれ、早かれ我々には必ずこの世の終りが訪れるのでした。 松尾芭蕉翁は『今日の発句は明日の辞世』と言っています。今日読んだこの俳句が明日の辞世の句となるんだという覚悟を持って彼もこの人生を歩んで来たのでした。 |
| ◆摩訶の世界 |
昔あれほどいた在来種のメダカが水の汚染等によっていつの間にか居なくなって仕舞いました。子供の頃私は金魚鉢にそのメダカを飼っていた事があります。メダカはチッチャな金魚鉢の中をスイスイと気持良さそうに泳いでいました。メダカにとって金魚鉢の中は自分の生きる世界のすべてだったのです。それに対して鯨はあの太平洋をやはり悠々と泳いでいます。我々傍観者が、人間のものさしで見れば大きな太平洋とチッチャな金魚鉢は見るからに大きさに差があります。しかし泳ぐ本人、メダカは鯨の泳ぐ太平洋を羨む事もなく、金魚鉢の中を気持ち良さそうにスイスイと泳ぎ、又鯨は鯨で悠々と太平洋を泳いでいるのでした。 小さなメダカはメダカとして完全無欠のイノチを生き、鯨は鯨で完全無欠なイノチを生きており、それぞれが比較を絶した世界を生きているのでした。その比較を絶した世界の事を、仏教では『摩訶』といいます。それはインド語で比較を絶した程に『大きな、偉大な、勝れた』等という意味の『マハー(maha)』の音訳で、良く御存知の摩訶般若波羅蜜多心経の『摩訶』等がそれです。 現在の日本人は、平均寿命が八十歳という、男女とも世界で一番の長寿国になりました。それでも中には長生きの人もいれば、短命な人もいます。しかしメダカや鯨がそれぞれ比較の出来ない世界を生きているように、我々も又、誰とも比較の出来ない生命を生きているのです。何故なら、自分の生命は誰も代わって貰えず自分自身で生きるしかないのですから。『摩訶』とは、そんな生命が長いとか短いとか、或いは生きる世界が広いとか狭いとか人間のものさしではかる比較の世界の事ではなく、完全無欠な我々の生命の質や、深さを言うのでした。そして今さかんに話題になり、言われているQOLとは、今までの傍観者としての人間のものさしから、自分自身の生命の質や、深さへの方向転換だったのかもしれません。 |
| ◆一日の行持を行取せば |
芭蕉翁が『今日の発句は明日の辞世』という思いで俳句を詠まれたように!そしてリンゴの樹を植えて一日をいとおしむように!生きられたらさぞ、素晴らしい事でしょうね。道元禅師様も『徒(いたず)らに 過ごす月日は 多けれど 道をもとむる 時ぞすくなき』と、今までの生活を振り返ってみると、いたずらに年月を重ね、真実の道を求める事が少なかったというのです。しかし『設(たと)ひ百歳の日月は声色(しょうしき)の奴婢(ぬぴ)と馳走すともその中、一日の行持を行取せば一生の百歳を行取するのみに非ず、百歳の他生をも度取すべきなり』と、たった一日でも自覚のある正しい生活が出来たなら、徒らに過ごした歳月も償われ、百年の生命を生きた事にもなり、又そればかりではなく、我々の死後の生命をも救う事も出来るのだと我々に教えるのでした。 |
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