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◆浄頭(ちんじゅう)の役目とは |
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その禅寺での如浄様の修行ぶりは真剣であり、特に坐禪は他の修行者に比べ群を抜いておられました。 |
◆汚(よご)れていないところを浄(きよ)める |
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その如浄様に出されたお師匠様の質問とは『お前は汚れていない処を、いったいどのように浄めようというのかね?「浄子染汚(じょうすぜんな)せざる処(ところ)如何(いか)んか浄得(じょうとく)せん」』という一見トンチのようなものでした。『汚れている処を浄める』というのならば、我々にもわかる話しなのですが『汚れていない処を浄める』とはいったいどういう事なのでしょうか?現代では、水洗トイレ等もあって、昔に比ベ、チョット小綺靂(こぎれい)になったように感じられますが、それでもお師匠様の質問のようにトイレは『汚れていない処』とはとても思えません。ましてや皆が使用したトイレを今から掃除する訳ですから、どうして汚れていないといえましょうか? |
◆トイレ掃除に学ぶ |
如浄様の真似(マネ)でもないのですが、私は3月のある日曜日、縁あって栃木掃除に学ぶ会『ASHIKAGA(足利)さわやか おそうじ くらぶ』の主催によるJR足利駅北口の公衆トイレの掃除のボランティァに参加したのでした。駅に着いたのが、ちょうど待ち合わせの朝の5時半、既に知り合いの世話人の人達が来ており、我々の到着を待っていて呉れました。 |
◆実践の世界へ |
我々が頭で考えているかぎり『浄い』『汚い』いう二っつの相対的な世界からどこまでも抜け出せず、行き詰まって仕舞うのでした。そして「浄と汚」ばかりではなく「苦と楽」「老と若」「貧と富」「美と醜」等の間を行ったり来たりとうろうろし、汚いにこだわったり、浄に引っ掛かったり、富にこだわったり、逆に貧に執着したりしているのでした。ですからそのような人間の相対分別のものさしでは『汚れている処を浄める、汚れているからこそ浄める』となり、どうしても道徳的な義務感が付きまとって仕舞います。特に我々には『トイレは汚れいる処』という先入観もあり、そこから抜けられません。ところが実際に身体を使ってトイレ掃除をするという実践の世界では、我々を縛りつけていた『浄い汚い』という相対的な思いは一挙に消え去り、そこにはトイレ掃除をする、只浄めるという純粋な、そして無理のない行があるだけでした。
そのような『浄い・汚い』という相対的な人間のものさしを超えた処を、お師匠様は(人間の思いで)汚れていない処と言われたのでした。 |
◆雨の中を行けば |
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『二人(ふたり)行く一人(ひとり)は濡(ぬ)れぬ、時雨(しぐれ)かな』という川柳があります。今日(きょう)は朝から冷たい嫌な雨が降っています。しかし今日(きょう)はどうしても雨の中を出掛けなければならない用事があります。そんな時には誰でもが『オックウだなあ!』と思いますよね。 |
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