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◆あるお寺さんの落慶式に招かれて |
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数年前、私は東北地方の縁のあるお寺の本堂新築の落慶式に招かれた事がありました。この長昌寺でも皆さんのお力によって本堂はじめ諸堂が立派に新築され、平成7年の春には、大勢のご寺院さんのお手伝いによって、落慶法要や開山忌(かいさんき)等の法要が営まれました。それと同じようにそこのお寺でも、落慶式にあわせて色々な法要をするので、その手伝いに行った訳なんです。 |
◆自分ではどうする事も出来ない増上慢の心 |
私の場合「言って頂ければどんな事でもやりますよ!」と言ってはみたものの、実際『接頭』という役を勤めるように!と言われた時には、正直な所ムカーッとしたんです。『なんでもやりますよ』と穏やかにうわべをつくろってみても、相手から見えない私の心の奥底からは『はるばる遠く足利から来たのに『接頭』という役をさせる事はないだろう?まったく俺を小僧扱いにして、ここには若いお坊さんはいないのか?お檀家さんでお茶を習っている人はいないのか?せっかく法要に出られると思って、重たい思いをして衣やお袈裟を持って来たのに』等という慢心(まんしん)が沸々とわき起こって来たんです。そして悲しいかな自分ではそんな増上慢のこころをどうする事も出来ないんです。 |
◆ほとけ様からは花の裏側しか見えない |
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法要も順調に進み、その休憩の時間に、そこの住職さんが私の所に来て、こう言ったんです。「すまないね、この『接頭』の役をお願い出来るのは、親しいあなたしかいないんですよ」と、その時、私はハッと気付かされたんです。 |
◆自分の事のように喜ぶ、思いやりの心 |
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落慶法要というめでたい席に招かれ、そこの住職さんはじめお檀家の皆さんの喜びを『自分の事のように喜び』に行ったはずが、おれが、おれがという慢心によってすっかり『随喜』し『他人の喜びに随う』という大切な事を見失ってしまったのでした。私はその時に『接茶』という役目をさせてもらった事によって、自分の眼では観る事の出来なかった自分のおごり昂り(たかぶり)の慢心を観させてもらった様な気がします。そしてそんな増上慢の心をどうする事も出来ないでいる我々に、そして私に対し道元禅師は、
只『しづかに随喜すべきなり』と教えているのでした。 |
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