われわれの日常生活の中で、仏さまは限りなく説法をしている。それを受けとる心のアンテナをたえず張りめぐらせておくことが仏道修行には大切だ---そう教えていただいている。車いすを使う私は在家の仏道修行者と自覚し始めて間がないが、仏さまの説法はなんだろうと気を付けていると、新鮮な驚きと喜びが多い。
先日、障害者センターに脳性マヒの知人をたずねた。彼が訓練中というので、ロビーで待った。すぐそばに冷水飲み場があり、車いすの人のためか、茶碗が置いてある。私もそれで水を飲んだ。その茶碗はふちが欠けて、きたなかった。私は十分にすすいで飲み、もとのようにふせた。
しかし、私のあとから来た若い女の人は、すすぎもしないで水を飲んだあと、ていねいに何度も茶碗を洗っていた。
それをみて、仏さまの説法だと思った。私は前の人がすすいでないと思って自分のためによく洗い、その女性は次の人のために洗い清めている。自分が恥ずかしくなった。普通の女の人だったのに、まぶしいはど美しく見えた。
人さまを信じて生きるには、まず自分の行動が自分で信じられるものでなければいけないと教えて頂いたと思った。
▼この『仏さまの説法』は、師父の死後、その書類を整理していたら、ノートの間から出て来た新聞の切り抜きです。それには、赤いボールペンで、見慣れた几帳面な字で『神奈川朝日/昭和55・9/24夕刊』と書いてありました。それは丁度、師父が横浜市鶴見区にある曹洞宗の大本山総持寺に再安居(修行)していた時期のものだと思われます。これを読んで、心を動かされるものがあって、ハサミで切り抜き、ノートの間にしまったのかと思うと、私も感慨ひとしおであり、師父の形見のような気が致しております。
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