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◆自分の脳死と愛する人の脳死では違う |
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たとえば、ご自分の事で考えられた場合、事故等で『脳死』だと宣告されたとします。その時、臓器を必要とする人がいるならば、提供しても良いと考えている人は沢山おられるかと思います。又、元気な時に臓器提供の承諾書にサインをしておこうと言う人もおられるかと思います。それはとても尊い思いであります。しかしそのように自分自身の脳死は素直に認められ、臓器を提供しようと考えられたとしても、もし自分の愛する人が、医師から脳死だと宣告され、臓器の提供を願われた場合では、話が全然違って来ます。愛しいわが児や、愛するつれあいであったならば、たとえ『脳死』であると宣告されても、その人の蘇生を願い、命ある限り看病し続けたいと考えるのではないでしょうか。 |
◆死の受容 |
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又、愛する人の『死』を中々素直に受け入れられないのも事実なんです。私の父が死んだ時、友人から『朦中見舞(モウチュウミマイ)』と書かれた御見舞いを頂きました。後で友人に教えて貰ったのですが、『朦(もう)』という字には、物事が確かでなく、ぼんやりかすんで仕舞ってはっきりしないという意味があるんだそうです。父の場合、入院してその7時間後には死んで仕舞った訳ですから、私を含めた遺族にとっては、きつねにつままれたようで、父の死をにわかに信じられなかったんです。そこで、父が本当に死んだのか、あるいはまだ生きているのではないか、そんな朦昧(モウマイ)の霧の中にさまよっている我々に対して、そのお見舞いを下さったんだと教えられたのでした。 |
◆愛するわが児の死 |
それは、お釈迦様がまだ生きておられた時代、インドのコーサラという大きな国の都サーヴァッティーに住んでいた『ゴータミー』という若い娘の話なんです。彼女はやせていたのでキサー(やせた)という愛称で呼ばれ皆から可愛がられていました。彼女は年ごろになると、同じ町に住む青年と結婚し、可愛らしい男の児を授かったんです。男の児を生んでから益々ゴータミーは皆から大切にされるようになり、本当に幸せな日々を過ごしていました。 |
◆芥子の実一粒の真実 |
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藁(ワラ)にもすがりたい彼女は喜んでお釈迦様の所へ行って『この児に薬を下さい、この児の病気を治してくれる薬を下さい』と哀願するんです。そのゴータミーの胸に抱かれた児は、誰が見ても明らかに死んでおり、勿論お釈迦様の目にもそう見えた筈なのに、お釈迦様は『そんな死んだ子供に飲ませる薬などあるもんか』と我々のように冷たく言い放つのではなく、優しくこう言ったんです。『よく来たな、ゴータミー、待っていたよ』と言うです。お釈迦様にそのように言われただけでも、傷ついた我々の心は癒されて仕舞いますよね。そして、より具体的にお話しを続けられるのでした。『芥子の実一粒を煎じてその児に飲ませれば、その児の病気は治るだろう、しかしそれは今まで一度も死人を出した事のない家の芥子(けし)の実でなければいけない』と教えるんです。 |
◆死に向かって歩む限りある命 |
何軒か歩くうち、ゴータミーはお釈迦様が自分に何を教えようとしているのかがわかったのでした。そして彼女は胸に込みあげてくるものを押さえながら、町はずれの墓地へ行って、我が児の亡骸を優しく抱いて『愛(いと)しい児よ、私はお前一人だけが死んだのだと思ってとり乱した。でも死ぬことはこの世に生を受けた者の定めであり、そして死んだ者は決して生き返らないのだという事がやっとわかった』と言うのです。 |
◆真実の言葉は癒しの言葉になる |
私はこの『死ぬことはこの世に生を受けた者の定めであり、死んで仕舞った者は決して生き返らない』という単純明快な教えを読んだ時にドキッとしたんです。誰でもがこの真実の道理から逃れられないんですね。当時のインドに於いて、この世に存在する一番小さい物質だと考えられていた芥子の実のように、どんなに小さな事であっても、真実の道理を曲げたり、歪(ゆが)めたりする事は出来ないのだと教えられたのでした。我々はそのような真実の言葉に接した時に心が癒されるのかもしれません。 |
◆埋葬すると言う事は |
私はこのお話を読んだ時、これは私自身の心もようであると思ったんです。我々は愛する者と死別する時、このゴータミーのように心の中で亡骸を抱き、助けを求め、そして薬を求めて、さまよい歩かねばならないのかもしれません。そして心の中にズウーと引きずって来た亡骸を、何時かは、お墓の中に埋葬する事が出来るようになると思うんです。逆にいえば、愛する人の『死』をチャンと受け入れられるようになるまでは、干からびたミイラの如き亡骸を引きずって、さまよい歩かねばならないのかもしれません。ですから我々は決してこのキサー・ゴータミーの行為を笑う訳にはまいりません。なぜなら、これは我々の心の中の出来事であるからなんです。 |
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